言葉の重み

今日は参観日。

人権週間ということで、道徳の授業だった。

あつこちゃんのお兄ちゃんは中学生だけど、勉強ができない、自分の名前しか書くことができない、でも誰とでも仲良くなれる、とか、そんな話だった。そんなお兄ちゃんが小学生にからかわれた、”バカ”と制服にいたずら書きをされた、制服に書かれた”バカ”という文字を、あつこちゃんのお母さんは消していた、消しながら最後は泣いていた、そんな光景をみていたあつこちゃんも、泣いてしまった、みなさんはどう思いますか、

という内容の授業だった。

先生は最後に子供たちに、「自分が発する言葉に責任をもつこと、何気なく使う言葉でも、それが人を傷つけてしまうこともある」とおっしゃっていた。

10歳に満たない子供たちに、どこまでこれが理解できるのだろうか、と思ったけど、案外子供たちはよく理解できていたんじゃないかとも思った。

一桁しかまだ生を過ごしていない子供たちが約束できることを、どうして大人はできなくなってしまうのだろう、なぜ、言葉を慎重に選んで会話ができないのか、これが人の性なのか。

徳のある人格になるのは、ほんの一握りの大人なのかもしれない。地位や名誉、お金があっても、徳がないとすべてが無意味になってしまうのではないか、でもこれは自分の価値観、徳がなくても善いと思う大人は意外と多いのかもしれない。

そんな社会に子供たちは入ってくる。若者が、大学や仕事をすぐやめる、人付き合いができない、というが、子供たちがなじめない社会を作っている大人に責任があるように思えてならない。

結局、誰もが住みやすい社会なんて存在しないのかもしれない。