6年という月日

明日は我が子の小学校の卒業式だ。

今の担任の先生は写真が趣味のようで、子どもたちのたくさんの写真を編集してくれた。写真をYoutubeで見ながら、この学校に転校できてよかったと思った。

5年生の6月からだから約2年間しか通わなかった学校だけど、特に6年生になってからは、学校が楽しくてしょうがない、という感じで毎日元気に通っていた。

そんな日々も明日で終わる。

6年間ってあっという間だな。

 

6年前の3月26日は保育園の卒園式だった。

そういえば、卒園した保育園も途中からだった。年中さんの7月からだったかな。

年中さんになった4月に宇部に引っ越したんだった。

引っ越しが急に決まったから、すぐに入れる保育園がなくて最初は幼稚園だった。その幼稚園になかなか馴染めず、いつもぶすっとして通ってた。

毎日朝がつらかった。

夏に保育園に変わってからは、初日からすぐに馴染んで、迎えに行ったら笑顔で出てきた。朝がつらくなくなった。

年長さんの4月8日の朝、いつものとおり、車で保育園に向かっている途中、我が子が「今日、ねね(我が子のこと)、おさいふもってくるのわすれたから、こんど、おさいふもってでたときに(ママの誕生日)プレゼントかうからまってて」なんて言った。我が子の財布にお金なんてはいってたっけ?なんて思いながらも、泣きそうになった。うれしかった。

 

小学校は、慣れるまでが朝は大変だった。

毎朝、友だちと合流するところまで送っていき、坂を上るまで見送る。

そんな日々が3か月くらい続いた。

いつの間にか、そんなことしなくてよくなった。

友だちもたくさんうちに遊びに来るようになった。

3年生になると、学校バザーも友だちとまわるようになって、夏祭りも友だちと行くなんて言い出して。

4年生は音楽祭があって、リハーサルの時、綺麗な白いシャツを準備し忘れて、一人だけプーさんのトレーナーを着て目立ったこともあった。あの時のプーさんのトレーナーは未だに捨てられず、ママのタンスにしまってある。見るたびに思い出す、ごめんね、って。

そして、4年生も終わりかけたころにコロナが流行った。

しばらく職場の学童、ヤマミィに行ったけど、そこでもすぐに友だちができて、楽しく過ごせてた。

小羽山での5年生はほとんど学校に行けず、転校が決まった。

学校が変わることをなかなか受け入れられず、二人で泣いてた。

なんでこんなことになったのだろうと、二人で泣いた。

転校手続きをとるために、新しい学校に二人で行って、担任の先生と教頭先生から説明をしてもらった。「わからないことはないですか」と聞かれたときに、「急に決まった転校で、私も我が子もこの状況を受け入れ切れていない」と言ってまた二人で泣いた。担任の先生も教頭先生も困っていたけど、私の転勤の理由とか、何も聞かず「大丈夫、すぐ慣れますよ」と言ってくれた。

先生たちの言ってくれたとおり、すぐに慣れたし、友だちもできた。

でも、やっぱり宇部がいい、そんな日々がしばらく続いた。

5年の夏休み、コロナのせいで、2週間くらいしかなかったけど、友だちと遊ぶこともできず、私も仕事で、我が子はたった一人でこの家で過ごしていた。

夏休みが終わってすぐに、コロナの濃厚接触者になって学級閉鎖、2週間我が子はまた一人でこの家で過ごした。

やりきれなくなったことも何度もあった。

 

そして、仕事が早朝からある時は、我が子を残して出勤しなければいけなかったこともあった。電車の中で、LINEしながら我が子を送り出す。なんで、引っ越した、と思ったりもした。

6年生の夏休み明けくらいかなあ、我が子は宇部が良かった、宇部に帰りたいと言わなくなった。宇部の友だちに会いたいとも言わなくなった。今の学校が楽しい、と。

6年1組でよかったと。

中学校もここでいい、と。

もう引っ越さなくていい、と。

 

今年の早朝出勤は、我が子を起こさず家を出た。

途中の電車で、今起きた、とLINEがくる。朝ごはんも自分で準備して食べた。

身支度して登校、6年生にはなんてことはなかったみたい。

早朝出勤して、我が子を置いて家を出たら、大泣きしてたのも過去のこと。

 

時間がすべてを解決してくれる。

私も我が子もここでの生活に慣れて、ここで生きていくと決心がついた。

 

神様、この普通の幸せが、いつまでも続きますようにお守りください。

 

明日は、心していなかないと、涙がとまらないかもしれない。