ホットケーキ
時がたつのははやい。
と言っても自分が今考えている時というのは熊本に引っ越してからの時間の経過だからたかだか一カ月半の話だけど。
でもこの一カ月半でこれまでに経験したことのないこともあって、なんだか大変な一カ月半だった。
大変だったけどそんな中でも、我が子と二人、たくましく生きてこれたことはやっぱり宝物だ。これ以上に何を望むというのかって感じだ。それでもいろいろ望むのが人間なんだろうけど。
引っ越したこと、引っ越さなければいけなくなったこと、そんな過去のこと、まだ一カ月しかたっていないけど、これで良かったんだと改めて思った。いろいろ悲しい思いもしたけど、でもこれで良かったと今は思っている。
今日は我が子は学校に行った。土曜日の半日授業だ。半ドン?
自分が小学生のころには土曜日は半ドンで嬉しかった。我が子らの世代は土曜日が休みで当たり前だから半ドンだとえーって感じなんだろう。でも我が子の担任の先生は子供たちがそうならないようにかわからないけど、今日、家庭科を2時間入れてホットケーキを作るらしい。我が子はだからなのかいそいそと嬉しそうに土曜日の学校に出かけて行った。朝、ホットケーキの作り方の本なんかも読んで予習していた。
そうえいば、この前の大雨の日も家庭科でホットケーキを作って、我が子ともう一人の転校生の歓迎会をしようってことだったらしい。結局、その日は午後から大雨で急遽保護者の送迎による総下校となってホットケーキは途中で生焼けのまま急いで食べたと我が子が言っていた。その日、学校に迎えに言ったら我が子の開口一番の言葉が「歓迎会が台無しになった」ということだった。楽しみにしてたんだろう。
今日はその埋め合わせのための家庭科かな。担任の先生は粋な計らいをしてくれる。感謝。
良い一日になりますように。
キスの日
昨年買い替えた車にナビがついているのだが、そのナビは一日の始まりに、”今日は〇月〇日◇曜日です。△▲の日です”とおしゃべりしてくれる。
昨日、某職場に段ボールの荷物をとりに行くために、朝エンジンをかけたら”今日は5月23日土曜日です。キスの日です。”といった。そんな日があるのかとびっくりしたが、このナビに言わせると、何にもない日はないのだ。必ず、何かの日になっている、ということは、毎日が特別で、同じ日は二度もないということなのだろうか。やっぱり、この車に買い替えてよかったと思った。
朝はそういうことで、荷物運びと我が子のピアノ。それから家でご飯食べて、昼からは、我が子の友達の家に行って、おしゃべり。
我が子はそこの子の友達やその近所の子と遊びまくっていた。結局何人の子供たちがいたのか、数えると8人!!大騒ぎだった。
初めて、ゆっくりそこのママたちとおしゃべりした。あいさつ程度の話とかは今までしてたけど、こんなに座ってゆっくり話したのは初めて。でもみんな気さくで、あっという間に夕方になった。久しぶりに友達とゆっくり話し、久しぶりに大笑いした。楽しかった。これもキスの日の魔法か。親交が深まる。
考えてみたら、いつもこんなパターンだな。引っ越すことが決まってから、仲良くなるのがスタートする。もっと早く仲良くなって、もっと色々話せていたら、違う未来があったのかもしれない、なんて思ったりした。
職場が変わることには何の後悔もないけど、環境が変わるのはやっぱり不安だ。特に我が子のことが。自分は今までに何度も引っ越しを繰り返してきたから慣れっこだが、我が子にとっては2回目。引っ越してよかったと思ってくれるように、やれるだけのことはやってみよう。
我が子とギューをして昨日は眠った。
この笑顔が途切れませんように、と強く願う。
とにかく笑えれば
今日は母の日
忘れていたわけではないが、心がざわついていたので、準備ができなかった。
昨日、ようやく我が子の手をかりて、カードを作成。
後でお店が開く時間に、プラスアルファの贈り物を買って、送り出そうと思う。
世間ではこの一カ月が母の月となっているらしいから、届くのが明日になってもそれはそれで良しとしよう。
我が子は工作が好きだ。
今回のカードづくりもだけど、SNSでいろんなアイデアを見ては、自分で作ってみようとする。そのため何度も百均に連れていかされ、買わされた数々の物品もある。
今は、友達に”サヨナラ思い出アルバム”を作ってあげている。昨日、友達と遊んでいて、別れ際に、自分が引っ越していなくなることを悲しいと思うかって友達に聞いたらしい。そしたらそのうちの一人が号泣した、と昨日家に帰ってくるなり告げてきた。
この時期の別れは確かに普通じゃないし、突然のことだし、でも我が子なりにその出来事を整理してくれて、これまでの生活にお別れをする準備をしてくれている。友達が自分がいなくなることで泣いてまで悲しんでくれることや、思い出を心に残しておきたいからと、アルバムを作って渡したり、とか、子どもながらに善い人間関係が作れていたのだなと、感激した。良い人間関係が作れなかった自分を少し顧みたが、今はもう開き直りの境地だ。毎朝、「ひらきなおり~(^^♪」と思いながら残された日々を、てくてくてくてく、歩いて職場に向かう。
昨日、たまたま、ウルフルズの「笑えれば」という曲がかかっていたのを耳にした。これ、初めて聞いたのは名古屋にいるときだった。この歌に励まされながら、仕事、頑張っていた気がする。
これからの世の中、先のことは予想がつかなくなってきたが、日々を楽しく過ごす、我が子と、今日一日のことを笑いながら語って、夜眠る、そんな生活がしばらく続けば、それはそれでとてつもない幸せなことだ、心からそう思う。
熱
我が子の熱発。
頭もいたいと言ってしんどそうだったから、38度になった時点で、ひとまず解熱剤を飲ませる。しばらくそばでトントンしてたら寝た。途中、何度かうなっている。苦しいのだろう。可哀そうに。
1時間後、起きる。熱は37度台へ。頭はまだ痛いと。はちみつトースト?食パンにしみこませてやわらかくして食べるやつ、提案したら、「食べる」と。
いちごとそれを食べたらちょっと元気に。ちょっとというかだいぶ元気に。
熱はまだあるけど、表情も明るくなっていつもの我が子に戻った。安心。
母のここ最近の情緒不安も影響しての熱発だったのではないかとも思った。
インフルの時は、まず食事がとれない。でも今朝ははちみつトーストをぺろりと食べた。熱の原因はわからないけど(このご時世、コロナである確率も十分あるから)、でも表情の明るさや元気な姿を見ると、母の心身面が少なからず、というか大いに我が子に影響することは明らかだ。反省・・・。しっかりしないと。
昨日の帰り道、何度も泣きそうになり、自分なんて生きててもしょうがないとか、姉に我が子を託して、もう自分はいなくなったほうがいいんじゃないか、なんて考えた。そんなこと一瞬でも考えてしまったなんて、我が子に失礼だ。なんてことを考えてしまったのだ。もうやめようと思った。ちゃんと前向いて上向いて生きていこう。なんだってできるのだ、我が子と一緒なら。なんだってしようと思うのだ、我が子のためなら。
今朝、我が子に謝った。「ごめんね、いろいろ昨日まで。二人で今を乗り越えようね。」というと「うん」と力強くうなずいてくれた。
感謝。
熱よ早く下がれ。
神様のいうとおり
コロナウイルスの話題でつきない。
毎日毎日、ついニュースにくぎ付けになる。
そんな時、ある記事を目にした。
今回の騒動で、二酸化炭素排出量が前年と比較して億単位で減少したということだ。
実際の数値は忘れてしまったが、ちょっと衝撃を受けた。そして、ここに何だか神の意志を感じたような気がした。
自分はカトリック信者だ。でも胸張って宣言できるほど神の御意志のとおりに生活ができているわけではないから、信者といえるほどではないかもしれない。
でも、今回のこの感染症騒動に神の計画を多少なりとも感じ取ったのには、できの悪い信者なりに、いろいろなことを考え、自分なりに納得したからでもある。
今回、感染症がパンデミックのごとく世界中を脅威にさらしている。
そして人々はうつらないようにと外出を控えたり人との接触を控えたり。企業は経営を縮小し、工場の稼働を一時的にストップする。
車、飛行機などの乗り物使用も減る。これらのことから起こってくるのは、排出ガスの減少だ。グレタさんが大人に訴えた、子供たちの未来のために環境を破壊するのをやめろと。あれを見て、具体的な行動を起こそうとした大人たちが果たしてどれほどいただろうか。自分もその一人ではある。グレタさんの言うとおりだと思いはしたものの、車の完全な不使用には至らず、ベジタリアンにもなれず、せめてできたことといえば、今まで多少なりとも心がけていたごみの分別と、マイバッグの使用くらいだ。
それがここにきて、自分を含むすべての大人たちが、感染症を予防するため、行動を控えるようになった。それが結果的に排出ガス削減につながったということだ。やればできるではないか、グレタさんだけでなく、そう思った人々はたくさんいるのではないだろうか。多くの犠牲(経済効果への打撃など)がそれに伴ったことだとは思うが、排出ガス削減は努力すれば、可能なのだ。そのことを神は我々にお示しになったのではないだろうか。新感染症という大きな打撃をあたえたとはいえ、なかなか行動できない我々に警鐘をならしたのかもしれない。
仕事だってそうだ。無理せず働くことが大事で、たいていの仕事は自分がいなくても成り立つのだ。組織というものはそういうものだ、以前、体調を崩したとき、某学長が自分に言ってくれた言葉だ。だから体調が悪いときは遠慮なく休めと言ってくれた。
人間が生きるために必要なことってなんだろう。
効果的な利他主義という生き方や、カトリック信者としてマザーのように神のみ旨に沿って生活する生き方を全うすることはできない、自分はまだまだ不完全な人間だから。(余談だが、我が子の洗礼名はマザーテレサだ。自分にはできなかった、マザーのような神のみ旨にそって行動ができるような子になってほしいとの思いを込めた。) でも、人間にとって、ちょうど神が示すような善というものが重要であり、善というものを目指すために正しさが求められるのだとすれば、道徳的に生きることが人間にとっての目指す道であり、そうなると、大きな利益とかは必要なく、生きるために必要なものを必要なだけ求め、そして、できるだけ利他的に行動でき、月並みだけど、子供たちに今のままの地球で生きられる未来を残せて行けたらそれでよいのではないだろうか、そんなことを、いろんな本を読んで考えた。
J.M.ミルを読んでいると、宗教のいろんな弱点が浮き彫りになっていくが、それでも人が宗教を信じる理由はなんだろう。キリスト教は確かに復活を信じているが、少なくとも利他的に行動しようとするきっかけを作ってくれはする。今はただ、自己中心的にならないように行動するだけにとどまっているかもしれないが、もう少し発展的な考え方や価値観が持てるようになったら、自分もシンガーのような効果的な利他主義者になれる可能性はあるのかもしれない。
人生はやぱり奥深い、修行の道である、そう実感した。
弱気
ここ数日、顔が引きつったり目がピクピクなったりする。口が動かしにくかったりもする。脳梗塞かなと思ったりしたけど、顔面神経麻痺かな。40代女性に多いらしい。
知り合い曰く、ストレスからくるものでもあるのでは、と。
気を付けないと。
これで免疫力でも低下した日には、はやりのウイルスにも罹患しかねない。
しかし、体の不調というのは努力したところでどうにもなるものでもない。もちろん予防は大事だけど、生きていく中で徹底した予防行動がとれるほど、豊かな生活を送っているわけではないのも現実だ。
弱気になった時ふと思った。我が子が大人になるまでは元気に生きていたいと。
思いで体の不調が改善するわけではないが、前向きにとらえることはできる。
来週までに治らなければ病院に行こう。
今週はまだまだ行く余裕がない。
治ればよいけどな。
バレンタイン
バレンタインデーはもうすでに終わっているのだが、我が子は今週末もまだそのイベントを引きずっていた。
まず、15日、学校で渡すのは禁止されているから、友達の家に持っていくと言い、車で連れて行けと言われた。その子に(同性の子だが)渡したら、その子からももらっていた。そして、今日16日も、友達がわざわざ私に来てくれた。そして、まだあげていなかった友達もう一人にわたし終わり、ようやく我が家の冷蔵庫はスッキリした。ずっとチョコレートがはばをきかせていたのだ。
バレンタインなんて自分はここ何年も縁遠いものとなってしまった。もともと義理チョコや友チョコには興味がなく、本命しか渡したことなかったから、今回(去年もだったけど)の我が子のようなまめな渡し方はしたことがなかった。だから本命がしばらくいないため、縁遠くなってしまったというわけだ。
そんなときに、くまモンのチョコが去年に比べて半減したというニュースを見た。
え、くまモンの人気が落ちてきたの?とちょっと心配になった。
来年はくまモンにあげよう、そう決めた。
それまでに本当の本命が現れたら尚よい、なんて思ったりした。