運気よあがれ!

何度も言うが昨日はいい一日だった。はじまりはミッキーの新幹線。

いつも自分は、良いことがあると、次に起こるのは悪いことだと思ってしまい、昨日は一日が終わるまでは気が抜けないぞ、と思っていたが、意外と良い一日で終了した。こんな日はめずらしい。

そもそも、本当にはじまりはミッキーの新幹線だったのか?と疑問を持つ。

よく思い出すと、前日の夜、ふと夜中に目が覚めた。これは日常のことだから別に何とも思わなかったが、隣に寝ている我が子の寝顔を見て、普段以上に愛おしさを感じた。こんな愛おしい子の寝顔を見れるなんて、なんて自分は幸せなのだと思った。ひょっとしたら運気が上がり始めたのはこの瞬間だったのか。

昨日は我が子を一日学校を休ませ一緒にある大学に行った。ある先生に会いに行くためだ。新大牟田駅を降り、エレベータの上から改札が見えたとき、その先生が改札口まで迎えに来てくれていた。思わず嬉しくて手をふった、と同時に、「まずった、ここは会釈するべきだった」と思ったが、そんな心配は一瞬にしてふきとび、その先生も笑顔で手をふり返してくれた。「やっぱりこれだ」と思った。確信した。きっと自分のいるべきところは、こういうところなのだろう、この先生は自分のことをそのまままるごと受け入れてくれる人だ、と安心した。我が子もすぐなつき、高級車で大学まで行ったらすぐに笑顔で話をしていた、ちゃんと目を合わせて。我が子も自分と似ていて、慣れていない人とは目を合わせて話すことができない。でも、こんなにすぐ慣れるのは、自分と同じものをこの先生から感じ取ってくれているからなのか。帰りにはぶどうを3房もくれた。新幹線の中で、袋の中をみると、3房で2500円はくだらないようだ。高級ぶどうはとてもおいしく、食べ始めるととまらなかった。

博多について、もう一つ用があるから、地下鉄に乗ろうと我が子に言うと、「電車はもう乗りたくない」とごねられた。おなかがすいたのと疲れたのとで、もうこれ以上旅をしたくなかったのだろう。迷ったが、また日を改めて行くと、良くないと思い、強引に説き伏せてその場所へ向かった。電車は嫌というのでバスで行った。変なとこで降ろされたから少し歩くはめに。歩いている間、これから話し合う内容を考えると気が重くなった。やっぱり良いこと続きはないかも、なんて思って、気持ちが下がった。

でも、いざ、話すと、今までもやもやしていたものが、なんかとてもスッキリした。行き詰ったと思っていたことに少し光が見えた気がした。

なーんだ、良いことはまだ続くじゃないか、と思った。

帰りのバス(やはり電車は嫌らしい)では、満月も見ながら、我が子は一番前の席で歌ったり踊ったりしながら(あまり大声を出していなかったのと人がいなかったので、まあいっか、としておいた)ご機嫌だった。

 

ひょっとしたら、このまま気持ちは前向きのままあと半年なんとかなるかもしれない、とも思えた。どうだろう、月曜日が近づくにつれ、そんな気持ちは薄れていくだろうか。がんばれるか、がんばろうと気をはらないほうがよいか、ぼちぼちやるか・・・。ウルフルズの「あしたがあるさ」を歌いながら帰る日がまた始まるのか。

 

分かったこと、理解者は必ず存在するということ、そんな人たちと仕事をすることのほうが自分には合っていること、そんな人(自分をあるがまま受け入れてくれる人)は日本には少ないということ、そんなとこだろうか。

でも、昨日最後に話ができた方へのいろんな気持ちが少し整理できた。顔を見て直接話をすることは大事だということを実感した。

以上